〜中島晴美 個展開催について〜

中島さんの10回目の個展の開催にあたって


目黒陶芸館館主:目黒伸良


はじめに

 当館での中島さんの個展が、今回で10回を迎えることになった。そして、中島さんの作品を理解してもらうため、1996年の個展時に金子賢治(現茨城県陶芸美術館館長)さんに「歴史の中の中島晴美」と題してテキストを書いていただいた。以降、1999年に渡部誠一(元岐阜県現代陶芸美術館学芸部長)さんに「中島晴美とバイオモルフィズム」、2002年に外舘和子(現多摩美術大学教授)さんに「中島晴美作品にみる現代陶芸の構造と国際性」、そして、2007年には大長智広(現京都国立近代美術館研究員)さんに「磁器の造形」を書いていただいた。

 なぜその時々の個展時にテキストを書いていただいたかと言えば、中島さんの作品の本質を簡単に文章に表すことができないことは分かっているが、先に挙げた方々のテキストが作品の外堀を埋め、作品に潜むであろう本質を浮かび上がらせる役割をはたしてくれるであろうと考えたためである。ということで、作品をより理解してもらう手助けにするために、機会あるごとに現代陶芸の研究者にテキストを書いていただいてきた。

 そして、10回という節目の個展を迎えるに当たってどうしようかと思っていたところ、中島さんから「今回は、目黒さんが書いてよ!」と言われたのである。何時かはこのような時が来るとは思っていたのだが、その時は深く考えもせず軽くOKをしたのである。

 実は私の本業は、水泳の指導者である。今年の3月までの約50年間、赤ちゃん、幼児、児童そして妊婦さんまでの水泳指導を行ってきた。そしてその間に、妊婦水泳指導理論やベビースイミング指導理論を含め今までに水泳の指導書を、共書を含めると7冊出版してきた。しかし、陶芸に関する文章は一度も書いたことがないし、ギャラリー主ではあるが陶芸の研究者ではない。だから、今回は体裁も何も考えずに思ったことを書きたいように書いて、10回も続けて個展をしていただいた中島さんに報いることと、中島さんの作品の凄さを知ってもらうこと、そして日頃思っていることを研究者とは違う視点で、生意気にも書くことにしたのである。

美術は、発見である。私は現代陶芸の美を発見した?

 日本のやきものの発祥は、およそ1万3千年前とも、さらにその前まで遡ることが出来るとも言われている。そして、それぞれの時代の名品と言われている作品が沢山残っているし、それらの作品の分類を試みれば、いろいろな分類が可能である。縄文時代のやきもの、弥生時代のやきものと言うように時代的な分類もあれば、今も慣れ親しんでいる日本各地に存在する地域の土の特性を生かした瀬戸焼、有田焼、伊賀焼と言うように地名を付けた○○焼という分類もある。また、陶器、磁器、土器、炻器と言うような土の種類と焼成温度での分類もある。そして、それぞれの土の特徴を生かすことを前提に、それぞれの時代を踏まえた作品が名品として残っている。

 さて、いずれの分類から見ても、それらのやきものの用途はほぼ明確であると言ってよい。すなわち、器として実際使うか、ある目的のために飾るかなど、明確な目的のために使用することがはっきりしている。このように言ってしまうと、縄文時代に作られた「火焔型土器」は何の目的で作られたのと問いただされそうである。それは、現代人が分からないだけで、縄文人にとっての用途があって作られていることに違いない。それが、戦後になると具体的な用途のない陶磁器作品が誕生する。それらを総じてオブジェ焼と呼ぶ場合がある。オブジェという言葉は、辞書によると「物体」「客体」を意味する言葉であるが、・・・」とあり、一般的にオブジェ焼と言えば、用途性のないやきもの全体を指しているようだ。つまり、道具として使えないわけで、視覚的鑑賞作品すなわち美術作品の分類となる。ただ、陶芸作品が他の美術作品と違う点は、素材に土を選択し、それを基に制作、さらに100%コントロール不可能な焼成というプロセスを経て作品が誕生するところである。作家の思いをストレートに作品化できないからなのか、絵画や彫刻などに比べて、まだメジャーとは言い切れない感がある。すなわち、用途性のない陶芸の視覚的鑑賞作品群の評価は、日本そして世界において上がってきているように思えるが、まだまだ評価が低いと言わざるをえない。しかし、私は、ここにこそ新たな美の発見を感じるのである。なぜならそれらの作品の中に、間違いなく私の心をざわつかせ、魂を揺さぶる作品群があるからだ。

 ここに何回読んでも面白い本がある。それは「日本美術の発見者たち」(東京大学出版会 2003年)と題した本で、著者は矢島新・山下裕二・辻惟雄である。内容の一部を紹介すると次のようなことが書かれている。「とりわけ美術品と呼ばれるものに関しては、なにがしらの知識や理論で武装した上で、すなわち眼に何らかのフィルターをつけて見ているのが普通である。・・・・・しかし、特定のフィルターを装着するということは、逆にそれを通過しないものを、見にくくすることも意味する。既成のフィルターは、既成の価値しか透過しないだろう。」と言うのである。

 特定のフィルターを装着するという意味は、アカデミックな美術教育を受けてきた目で美術を観れば、美術の教科書や美術史に載っている作品が美術品ということになる。当たり前と言えば当たり前のことだが、この本ではそのことが逆にそれを通過しないものを見えにくくしていると言うのである。

 そして、既成のフィルターだけでなく「フィルターをいったんはずして見る。・・・・・新たな価値を映し出すまったく別なフィルターを付け替えてみる。・・・・・新たなフィルターを装着することによって、それまでまったく顧みられなかったものが初めてアートとして立ち現れてくるとしたら、そのような「眼の革命」に基づく新たな価値の発見は、創造と言うに値するだろう。・・・・」と結んで、明治以後に「眼の革命」によって獲得された美術として、柳宗悦―民芸の発見を初め、6つのカデゴリーに分けて論じているのである。

 この本に出合ったことは、自分にとってまさに「目から鱗が落ちる」に匹敵することであった。この本は、美術は発見であることを私に教えてくれたからである。「日本美術の発見者たち」にも書いてある通り「かつての日本美術史の概説書を繙いてみれば、皇室や王朝貴族、あるいは大寺院や上級武士などの支配階級の庇護のもとに、中国の進んだ様式や手本として作り出されたものが大半を占めていたことが知られる。もちろんオーソドックスからはみ出す悪の強い造形や、民衆のための素朴な造形は、いつの時代にも存在していたはずであるが、明治時代に確立する美術史学においてそれらは切り捨てられ、上品で技術的に高いレベルにある作品のみが、西洋にも誇りうるものとして、当然のように対象とされたのである。」この文章の中にもある「オーソドックスからはみ出す悪の強い造形」や「素材にこだわった造形物」に、私は美を強く感じるのである。特に現代陶芸のように素材にこだわった造形作品の中には、私のようなサラリーマンでもコレクションが十分可能なものがある。なぜなら、既存の絵画や彫刻作品に対して価格が安いからである。と同時に、まだまだ正当に評価されているとはいえいない現代陶芸に、私は強く魂を揺さぶられる美を感じるのである。

 有難いことに私は山形県長井市の田舎で育ったために、アカデミックな美術教育を受けていないので、既存の概念で美術を観る眼が殆ど養われていないと言っていい。だから、なぜ現代陶芸が、受け入れられないのかが分からなかったのだが、これこそが美の発見なのであり、これから我々の努力により確かな美術になっていくと考えるのである。

 その理由は、自分の思いを表現するための単なる材料として素材を選ぶ世界とは違い、まず土を選択し、土の生理を踏まえた上で造形し、焼成するプロセスの中に自分の思いを織り交ぜて表現している世界が現代陶芸の本質であり、最近では、そのことを自覚して制作をしている陶芸家の作品群が非常に豊かになってきているし、そこに私の魂を揺さぶる作品が多くあるからである。

なぜ、当館は現代陶芸を中心としたギャラリーなのか

 私が目黒陶芸館を開設したのは、今から29年前の1992年だった。早いもので来年は30年という節目の年を迎えることになる。開設した理由は、いろいろあるが大きく分けると二つである。

 一つは、理屈抜きに陶芸が好きだということ。なぜ好きかと聞かれれば、それにもいろいろな理由があるが、大きな理由の一つは、山形県長井市という田舎で育ったことにあるかもしれない。私は、小学校に入学するまで、食事の時のうつわがすべて塗椀だった。それに対して、祖父祖母、父親母親、兄姉は、汁椀以外はやきものであった。なぜ自分だけが塗椀で食事をしていたかといえば、塗椀は落としても割れないがやきものは落とすと割れてしまうからである。幼児期の私はよほどそそっかしかったのであろう。やきものの中で、特に磁器は叩くと「チーン」と心地よい音がする。塗の器も好きだが、その頃に感じたやきものへの憧れが今も続いているのである。

 また、美術が大好きで大学生の頃から上野にある東京国立博物館に入りびたりであった。このように書くと、どこの美術大学に入っていたのと聞かれそうだが、私は美術大学の卒業生ではない。将来は、会計士になる目的で某大学の商学部会計学科に入学した。そして何故かその頃から用がなければいつも東博に通っていたのである。それも企画展を見る金がなかったので、通常は常設展ばかりを見ていた。今から50年以上前の常設展の入場料は200円前後だったのではないかと記憶している。今なら安い入場料だと思うが、大学の学食のかけうどんが50円の時代であったので、私にとっては決して安い入場料ではなかった。

 当時の東博の常設展示作品は、今と比べても、そんなに変わっていないように思う。特にやきものコーナーは変わっていないのではないだろうか。

 私が学生の時に、東博の常設展示の陶磁器コーナーの作品で度肝を抜かれたのは、古伊賀の作品群を観た時である。花入、水差、茶碗などどれを観ても歪んでいる。デホルメされているのである。それら古伊賀作品を観た時の、心のざわつきを今でもはっきり覚えている。道具としてのやきものを観るというより、庭にある石の造形物のような存在感で、歪んでいることが私に心地よい思いをさせたのである。質感も岩のようであり緑色の釉薬が水のかかった苔のようにも見えてくるから不思議である。まさしく人工物というより、古代から自然とそこにあったようにも見えた。

 この心のざわつきは、言葉で説明できない何かによって心が揺さぶられた感じであった。この経験はこの時だけでなく、それまでにもあったし、それ以降も度々あった。中島晴美さんの「苦闘する形態」の作品群を初めて見た時もそうであったし、重松あゆみさんの「骨の耳」の作群を初めて見た時も、稲崎栄利子さんの「森」と題した作品を見た時もそうであった。それは、言葉で説明できるようで説明できない何かに心が揺さぶられる感覚なのである。そして、今では、美術の本質は言葉で説明できないのだと確信しているし、逆に言葉で説明できないのが美術の本質ではないかと思っている。今では、言葉で説明できないからこそ、美術の中の、特に現代陶芸に存在価値があると思っている。

 美術の世界には、作品のコンセプトを聞いてから、作品を観る世界があるようだ。作品が言葉で説明できるのであれば、作品はいらないのではないかと思ってしまう。

 少々長くなってしまったが、以上が現代陶芸のギャラリ―開設理由の一つである。
 もう一つは、日本にある美術の中で世界に通用する美術は、素材に基づいた造形、すなわち現代陶芸であると考えているからだ。この考えは、ギャラリーを開設してから一貫して変わっていない。

 この素材に基づいた造形の考え方を整理して発表したのが金子賢治さんだった。次の文章は金子さんが「日本の現代陶芸―伝統から新しい造形へ」展(2000年5月)のカタログに寄稿した文章の一部である。「・・・・・それは形が素材を自由に選ぶ純粋美術とは「ちょっと違う」のである。しかし同時にまた「用」を基本とする従来の工芸観とも違う。ここから陶芸のプロセス(「轆轤土の構築乾燥施釉焼成完成=実用性」=陶芸の伝統的秩序)を通して作家の個性や自己自身を表現するという、純粋美術のようでもあり従来の工芸でもあり、そのどちらでもない、つまり土のプロセスに自我が溶け込んでいくように形を作り出すという「近代美術」(正確には西洋の)にはない「新しい造形の論理」が打ち出されたのである。・・・・・現代美術と違う点は、素材を一つに限っていることで、そのために特殊なプロセスを経て形が作られていくことである。こうして大きな造形的根拠を得た現代陶芸ないし工芸は、ここから飛躍的な発展を遂げる前提を得た。これを工芸的造形とよんでいる。」

 金子さんは、上記の文章をはじめ、いろいろな論文の中で工芸的造形の考え方を広めていった。この金子さんの考え方は、基本的に私の考え方と一緒だった。

 さて、ちょっと大げさな話になるが、もしかしたら現代陶芸の作品群が、現在の人間の考え方や行動に大きな影響を与えるのではないかと私はひそか思っている。なぜなら、自分の思いを表現するための単なる材料として素材を選ぶ世界とは違い、素材が先と考えて、土を選択し、土の生理を踏まえた造形と焼成のプロセスの中に自分の思いを織り交ぜて表現している世界、現代陶芸の素材への態度の中に、そのヒントがあると思っている。

 この「素材が先」というのは、現代美術をやっている人から見ると、古臭く感じるらしく、それは最先端の美術ではないと思っているところもあるようだ。しかし、私には、素材との関りから始まる現代陶芸の態度は、これからの人間が生きる方向をも暗示する、意味を含んだ素晴らしい表現方法であると考えている。

 なぜなら、土という素材が先というのは、土という素材の制限を自らの制作理論で受け入れることであるからだ。現代陶芸では、土を単なる材料として扱うのではなく、いろいろな素材がある中で、自らの意志で土という素材を選び、そして土の制限を受け入れることから、制作の第一歩が始まるのである。だから、必然的に作品制作の方法も、自分の思いを表現するために土と焼成のプロセスを利用するという制作方法を取らない。ではどうなるかといえば、制約の多い土の特性を最大限に生かしながらの造形と焼成のプロセスの中に美術家(陶芸家)としての思いを織り交ぜるという流れになる。土の制限を受け入れて土での造形を行い、100%コントロールすることの出来ない焼成を経て作品が完成する。

 美術家の自分の思いが前提にあり、それを表現するための単なる素材として土を選択するのではなく、土という素材を先に受け入れ、土の特性を最大限に踏まえてそこに美術家としての思いを織り交ぜるという表現方法は、現代的でないかもしれない。人間の思いを表現してきた結果が現代であるから、確かに現代的でないかもしれない。しかし、よく考えて見るべきである。現代的ということは、地球が危ないということを助長する世界である。

 それに対して、先に素材ありという態度は、造形上扱いが難しくなることもありうる土という素材の中に身を置くということである。私は、この特殊とも考えられる現代陶芸の制作理論の中に、地球の破壊を防ぐ唯一の思想が隠れているように思うのである。

 自然の征服でもないし、自然との共生でもない。人間は自然の一部であり自然の循環に従って生きていく以外にないのではないかと思っている。私には、この自然の循環に従うという制限の思想を受け入れるということが、初めに土ありきという制限の中で制作をする現代陶芸の美術表現の理論から見えてくるのである。だから、こうした態度で制作された未来を予見する作品群が、鑑賞する人々に知らず知らずのうちに影響を与えていくのではないかと考えてしまうのである。

 そして、以上の考え方で制作をし、影響を与えているのが中島晴美さんの作品であると、私は思うのである。

 ここでちょっと話がそれるが、ここに月間アートコレクター誌の2014年11月号に載ったギャラリストの小山登美夫氏が、当時の酉福の店主:青山和平氏にインタビューした内容の一部を紹介する。青山氏は、日本の現代陶芸等の素材と技術に根差した作品を海外のアートフェアに紹介して実績を上げている人である。

「青山氏:コンセプトのみの現代アートを集めておられる方に、「飽き」が出てくることがあります。それはクオリティの高さであったり、本質的な何かがないからではないでしょうか。どこを見てもこれはこの人しかできないもの、確かに職人の技術以上を駆使しながらも、自分の自己をそこに表現する、それがコンセプトであり、それが現代の美です。それを基本的に抽象のシンプルな形でやっている方々が、今、世界の土俵で活躍し実際に評価していただいている。」

 いやはや、このインタビューの青山氏の発言は、海外の事情をよく知らない自分を勇気づけてくれる。すなわち、日本の現代陶芸は、世界で受け入れられる可能性が高いことを教えてくれているのである。

中島さんの作品との出会いとそれ以降の作品の流れ

 1.中島さんの作品との出会い

 過去のことを振り返ってみたら、自分が中島さん自身に出会う前に中島さんの作品に出合っている。中島さんの作品に出合ったのは、1992年9月に神戸西武で開催され、続いてその年の10月に西武百貨店池袋店で開催された「陶芸の現代性」展だった。(実際は、1985年頃の中日国際陶芸展で「発芽」と題した作品を出品しており、それを見たのが最初である。その作品は鉄の四角の柵の中に直径15cm前後の卵形のものに円筒を付けたものが10個以上入った作品であった。その時は、中島さんの作品とは知らず、変なものを作る陶芸家がいるものだと思ったことを記憶している。)

 当ギャラリーは、この年にオープンしたことは前述したが、翌年に井上雅之さんの個展を控え、井上さんがこの展覧会に作品を出しているということで見に行ったのである。

 この展覧会の出品作家(敬称略)は、秋山陽、井上雅之、勝間田千惠子、川口淳、清水柾博(現、八代清水六兵衛)、斎藤敏寿、重松あゆみ、滝口和男、田島悦子、中島晴美、中村康平、深見陶治、松本ヒデオ、三輪和彦(現十三代三輪休雪)、八木明であった。

 この時の出品作家を見てわかるように、この展覧会の開催から29年経った現在、ほぼ全員が日本を代表する陶芸家として活躍している。これは凄いことである。この展覧会を企画したのは故奥野憲一(1952年~2008年)さん。(奥野さんについては機会があれば彼のことを書いてみたいと思うが、今回は割愛することにする)

 奥野さんの作品を見る目は鋭かった。よくあの人はモノの良し悪しが分かる人だと言う場合がある。奥野さんはモノ(作品)の良し悪しが分かる人で、その陶芸家としての将来まで見抜く力のある人だった。世の中には肩書にものを言わせて、作品の評論をする人がたくさんいる。言葉を並べて何が言いたのか分からない文章も多いし、将来を見抜くような評論にも出会わない。その理由は、自分の脚で歩いて作品を見ないからだ。また、作家の将来を見抜くような評論をしないのは、作品を見る目に自信がないからだ。だから、今後が楽しみだとか今後を期待するといった言葉で締めくくる文章が多い。その点奥野さんは、若い陶芸家の作品をよく見ていたし,その将来性を見抜いていた。言葉は悪いが、奥野さんの作家選びの嗅覚には、とてもじゃないがかなわなかった。私と同じ年齢だったので、早く亡くなられたのが惜しまれるのである。

 話がそれてしまったが、この「陶芸の現代性」展で、意識して中島さんの作品を見たのが初めてだった。作品は、水玉の鞄の口が裂け開き、内部に棘がたくさん生えた感じの作品だった。

(図ー1 鞄シリーズ)

 僕がこの作品を見て感じたのは、水玉模様の清楚な外側に対して、内部には牙がむき出しになって迫ってくる。すなわち、外側でエロティックとユーモラスを表現し、思い切り開らかれた内側には牙が生えており、見ただけで刺されたら痛く震え上がるようなことを想像させる作品だった。そして、その作品から中島さんという人は、俗な言い方で言えば結構エロいのが好きでユーモアのある人かなと思ったのである。同時に作品に毒を何気なく感じることのできる作家であるが、どう見ても土を利用して作品作りをしているように感じた。しかし、私は直感で中島さんの陶芸家(芸術家)としての才能を感じたのである。

 後で分かったことだが、1990年前後で「鞄シリーズ」のような具体的なモチーフを基にした作品制作は終了する。

 中島さんは、「鞄シリーズ」を終了するに当たって次のように述べている。(「陶Vol.74」京都書院 1993年)

 「・・・・・内なる自己をテーマに、鞄シリーズを制作してきた。それは自己の内側にあるロマンチックなものへの執着だけであった様な気がする。生きていることも生きることも、もっとリアルに、もっと真実に迫り切らなければ救われなくなってきた。そんな自問自答の末、このシリーズに終止符を打つことにした。今、私は土そのものに自分を見出し、人間の苦闘する内面を表現したい。そしてそれを私の存在証明にしたい。」

また、炎芸術NO.41(1995年)号で次のようにも述べている。

 「今までの私の制作方法は、まずエスキースを作って、それを基に作り出すことが多かったし、また、そのエスキースに囚われて、それにはめ込もうとする意識が強かったように思います。・・・・・自分の意図する形へ抑え込もうとすること、土を征服しようとすることばかり考えていたような気がするのです。たまには土に身を任せ、土の生理に沿って制作をしたいと思っているわけです。」

 そして、半球形が連続してつながっていきながら、うねるような形態が特徴の「苦闘する形態シリーズ」が始まるのである。

 上記の中島さんの文章から分かることは、「鞄シリーズ」と「苦闘する形態シリーズ」では、制作の考え方が大きく変化したことだ。簡単に言えば、初めに作りたい作品のスケッチがあって、それに土を押し込む方法から、イメージを言葉に置き換えて「悶えるようにウニウニとねじれながら登っていく感じ」とか「地をヌタヌタと這いつくばっていく感じ」というふうなことを、意識の中で変換して手を通して土に伝えていく制作に変わっていったのである。

 私が中島さんにお会いしたのは、1993年頃に金子賢治さんを通してだったと思う。それからは、年に数回は恵那市竹並にある自宅へお邪魔することになった。この時期から恵那詣でが始まった。それが28年続いていることになる。この時期はまだ作品があまり売れることがなかったようで、自宅には「苦闘する形態シリーズ」の初期の作品やそれ以前の作品が多数蔵の中に置いてあったし、置ききれない作品は外に放置してあった。

 そして、中島さんは、1995年国際陶磁器展美濃'95の陶芸部門で金賞を受賞するのである。

(図−2「苦闘する形態Ⅴー1」東京国立近代美術館蔵)

 図―2の作品は、国際陶磁器展美濃'95の陶芸部門で金賞を受賞した作品4点の中の1点である。自分にとってこの作品には思い出がある。ちょうど中島さんの自宅へお邪魔した時に、国際陶磁器展美濃'95に出品するための作品が、予備を含めて5点、素焼きの段階で置いてあった。自分はそれらの作品を見て、心がざわつき始めたのである。そして、その場で金額も聞かず、中島さんに5点の素焼きの作品の中の図―2の作品を譲ってもらえないか交渉した。中島さんは戸惑っていたが、素焼きの段階なので約束はできないが、無事焼きあがったら譲ることを約束してくれた。私は、中島さんの作品を数多く見ていたので、その時点で焼き上がった作品を想像できていた。実際焼きあがった作品は、想像以上の出来上がりだった。中島さんがいみじくも言った通り、「悶えるようにウニウニとねじれながら登っていく感じ」の作品で、いかにも動き出しそうな作品だった。

 結果的にこの作品は、私の手元には来ず、東京国立近代美術館に収蔵されることになった。当時、金子賢治さんは東近美の工芸課長という要職にあったが、この作品について『現代陶芸の造形思考』 中島晴美「苦闘する形態 V-1」2001の文章の中で、次のように書いている。

「・・・・・これらはすべて手捻り(輪積み)で制作される。その際、初めにスケッチがあって、それに無理やり土を押し込むのではなく、その反対に、少しずつ土を積んでいき、その過程で一つ一つイメージが変化し膨らんでいくという方法をとっている。その時々の気分・感情と土の手触りが相互浸透し合い、土の構築のプロセスを刻々と乗り移っていくのである。・・・・・苦闘が土の構築のプロセスに何の媒介物もなくそのまま伝えられていき、形になっていくのである。そうした新しい造形の論理と実践が一段と高い水準で結実したのがこの作品である。」

 これ以降、中島さんは素材を土に限定し、制約の多い土の特性を最大限に生かしながらの造形と焼成のプロセスの中に、美術家(陶芸家)としての思いを織り交ぜるという方法を自覚し、精力的に作品を発表していくのである。

2.作家は時には凄い(異色な)作品を作る

 僕の手元に中島さんの凄い(異色な)作品がある。その作品は、1996年に愛知県陶磁資料館で開催された「現代陶芸の若き騎手たち」展に出品された作品で「苦闘する形態Ⅵ―1」ある。

(図―3「苦闘する形態Ⅵ―1」目黒陶芸館蔵)

 この作品は、苦闘する形態シリーズの中では、異色な形態をした作品である。苦闘する形態シリーズの作品のほとんどは、上に伸びていく作品か、横にクネクネ伸びていく作品が多いからだ。しかし、この作品は円をベースに上下左右へと伸びようとする雰囲気を感じさせる作品である。中島さんに何故このような作品を制作したかは聞いていないが、私には作家の制作に対して勝手な想像がある。それは、同じ流れの作品を制作しているとふとした時に、作家本人も想像しなかった形が出てくる時があるのではないかという想像である。

 なぜそう思うかといえば、上村松園という画家がいる。上村松園は、日本を代表する女性の画家で、未婚の母で文化勲章を受章した人である。日本画の好きな方なら分かると思う。彼女の代表作は「序の舞」と題された絵で、重要文化財に指定されている。上村松園の画風は気品あふれる美人画であるが、この画家には「焔」と題した異色の絵がある。

(図―4 上村松園作「焔」東京国立博物館所蔵)

 この作品は、謡曲「葵の上」に想を得て源氏物語に登場する六条御息所の生霊を描いた作品。美人画作家といわれる松園の作品の中では異色の作品である。髪の端を噛んで振り返る青い顔には嫉妬に翻弄される姿が現われ,白地の着物に描かれた清楚な藤の花にからむ大きな蜘蛛の巣が,執拗な怨念を不気味に暗示させる。

このように芸術家は、本人が気づかず心の奥底に持っていたものが、ふとした時に一気に出てくることがあるのではないかと思うのである。

3.水玉が消えた

 中島さんの作品の特徴の一つが、表面を覆っている水玉である。陶土に白化粧をして本焼き後に転写紙の水玉をピンセットで貼っていく。自分も中島さんの自宅で水玉を貼っている姿を見たことがあるが、気の遠くなる作業をよくやるな!と思ったことがある。水玉を貼り、再度焼成するとブルーの水玉が沈み上絵であるにもかかわらず下絵のように見える、イングレーズという技法であり、形との一体感が強調される効果がある。これは当時中島さんが勤めていた多治見市陶磁器意匠研究所が開発したものだそうだ。

 その水玉を取ったのである。

 当時、気の合う研究者と作家が集まって現代陶芸の研究会を行っていた。メンバーは中島晴美さん、金子賢治さん、奥野憲一さん、深見陶治さん、前田剛さん、自分、全部で10人ほどが集まって年に数回行っていた。ここでは研究会の詳細については割愛するが、その研究会の中で中島さんの作品がテーマになった時があった。今となっては誰が言ったか分からないが、中島さんは、「水玉の根拠はなに?」と迫られたのである。まじめな中島さんはそれを真に受けて、水玉を取った作品を作り始めたのである。それは1998年頃の出来事だったと記憶している。私はその時、何も水玉を取らなくてもいいのではないかと思っていた。

 しかしそのことは、服を着ていた人が裸になると同じ事で、裸の姿が丸見えになる。それは中島さんの作品の造形を深く見直す結果につながった。そして、水玉を取ることで造形のあり方を深く考えた結果、(図―5)の作品が生まれたのである。

(図―5 白の形態 目黒陶芸館蔵)

 この作品は、水玉の装飾がなくても、今にも動き出しそうな強靭で力強い造形が獲得されている。中島さんの水玉の無い作品の代表作の一つといえるのではないだろうか。

 中島さんは、二年間ほど水玉の装飾の無い作品制作を行った後に、再び水玉を取り込んだ作品制作に挑むことになる。

4.土の素材を陶土から磁土へ変更

 2002年に中島さんは、オランダのEKWCというところから招聘されて、オランダで制作を行った。その時に出会ったのが、オランダの磁土である。この時点から素材の土が陶土から磁土に代わるのである。この辺のことについて、大長智広さんが「磁器の造形-中島晴美の現在性―(2007年)」の文章の中で触れているのでその一部を紹介することにする。

「日本で磁器を手捻りで行うということは、磁器という素材の性質との関係から試みられることは陶磁史上ほとんどなかった。これは磁器の性質として成形から乾燥、焼成という過程における素材の変化が大きいことやかたちの変化を素材が記憶する性質を有していることにゆらいするもの・・・・・中島は近年、素材を陶土から磁土に変更し、本来は手捻りに向かない磁土に紙を混ぜるなどして、技術的困難を克服することで磁器を手捻り可能な素材へと変貌させた。」

 当時、中島さん自身に、磁土で立ち上げて作ったものを焼成すると作品がへたってしまい、うまくいかなくて苦労した話を何回か聞いたことがある。その技術的な問題をほぼクリアして、現在の作品へつながる磁土による作品が誕生したのである。

 当時のことを振り返った中島さんが書いた文章(東京国立近代美術館工芸館 開館30周年記念展Ⅱ 工芸の力―21世紀の展望のコメント)があるので一部を紹介する。

「・・・・・私の求める白は、化粧土によるうわべの白ではない。芯から表面まで全体を支配する白でありたい。・・・・・そんな磁器への憧れが抑えきれなくなってきたのである。

この5年間は悪戦苦闘の日々であった。・・・・・素材を一つに限定して制作する陶芸の造形は、その不自由さも受け入れ、素材の声を聴くことが不可欠である。・・・・・」

 陶土で制作した作品の中にも心をざわつかせるものがたくさんあったが、中島さんはそれだけでは満足できず、芯から表面まで全体を支配する白でありたいと磁土に変更したのである。

 この時期から現在まで磁土による作品が数多く誕生し、日本の美術館そして世界の美術館に作品が収蔵されていることはみなさんご存じの通りである。

 作品の評価が高まることは、それはそれで素晴らしいことであるが、中島さんの作品制作において、もう一つ注目したい点がある。それは、磁土を手捻りで立ち上げていく制作方法についてである。中島さんの場合は、完成した作品の方へ眼がいき、磁土を立ち上げて作品を作っているこの手法について評価されることはあまりないように思う。でも、この磁土を手捻りで形を立ち上げていく方法は、もっと評価されていいのではないかと思うのである。

 長江重和さんが、磁器のへたることを利用してそれの集合体の作品で評価されたことがある。中島さんは、磁土を手捻りで立ち上げ自分の形を作り上げていっている。繰り返しになるが、私は、この点をもっと評価されてもいいのではないかと思うのである。

 次の作品は、磁土で制作した代表作の一つである。

(図―6 不条理を開示する形態―1302 目黒陶芸館蔵)

終わりに

 中島さんの作品の「苦闘する形態」と題した一連の作品から「不条理を開示する」そして、

「内なるかたち」のモチーフ(根源)は、何なのであろうか?と考えることがある。そのことについて中島さんと話したことがないので、自分が思っている中島作品の根源について最後に書いてみたいと思う。

 中島さんの1980年代の作品の「N氏はメンデルを引用して答えた」「うふふ」「コスモスの羽を持つ鳥」等の作品から私は、エロティックとユーモラスを感じるのである。そして、「苦闘する形態」にも同じようにエロティックとユーモラスを感じてしまう。中島作品の造形は、中島さんが経験してきたこと見てきたこと感じてきたことが記憶として蓄えられ、それらが手を通して形に置き換えられていくのではないだろうか。どのような経験が記憶として残っているのかわからないが、エロティックとユーモラスが深く関わっているのではないかと想像するのである。  

 それから、中島さんの住んでいる恵那市武並付近の風景も深く関係しているのではないかと思っている。恵那市というように恵那山が見えるところに中島は住んでいる。そして、その近くを奥さんとドライブすることが好きだと言っていた。だからと思うが自宅を訪問すると、よく恵那山が見えるところや恵那峡が見えるところに車で連れて行ってくれる。中島さんの自宅の近くにある山は、恵那山をはじめ北アルプスのように険しい山ではなく、どちらかというと丸みを感じさせる山が多い。毎日見ている山並みの風景の記憶が奥底にあり、それらを通して形として表れているのではないかと私は想像するのである。画家はそれらの記憶を色で表現するが、中島さんはそれを紡錘状に伸び、うねり、ねじれ、反転し増殖する形で表現しているのではないかと思う。さらに、中島さんの作品は、どこかに毒を含んでいる。その毒は、刺されると生命に関係するような毒ではなく、神経を少ししびれさせるような毒である。この根源は実はわからない。恐らく持って生まれた芸術家の才能(血筋)なのではないかと想像する。

 数年前、中島さんに「目黒さんは、いつまでギャラリーを続けるの。」と聞かれたことがある。逆に自分は、中島さんも70歳を超え、いつまで第一線で作品作りができるかと考えてしまう。  

 今まで多治見市陶磁器意匠研究所の職員として勤務し、数多くの陶芸家を育成してきた。その後、愛知教育大学で教授として、そこでも数々の陶芸家を育成してきた。現在は多治見市陶磁器意匠研究所の所長として、引き続き陶芸家の育成を行っている。絶えず陶芸家と二足の草鞋を履きながら、教育者としての人材育成と精力的な作品作りを継続してきた。そして現在、それぞれの年代の作品が高い評価を得ている。

 今年の3月に恵那の自宅を訪ねた時、目黒さんの所での個展のために、死に物狂いで作品を作っているから、楽しみにしていてくれと言ってもらった。売れないギャラリーでの10回目の個展である。毎回、その時々の精魂を使い果たして制作した作品を持ってきてくれている。有難いことである。

 終わりに勝手な想像をすると、中島さんは、作品に迫力がある内は大丈夫な気がする。今回の10回目の当館での個展にも、年を感じさせない力強い作品が並ぶ予定である。そして、今回も来館者の魂を揺さぶりざわつかせるに違いないと確信している。

(2021年10月吉日)